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エリコットシティ(は、アメリカ合衆国メリーランド州中央部ハワード郡に位置する国勢調査指定地域(CDP)であり、同郡の郡庁所在地である。ボルチモア・ワシントンD.C.大都市圏に属している。2010年国勢調査での人口は65,834 人だった。メリーランド州の郡庁所在地である未法人化の町としては人口最大である。2000年の国勢調査時点で隣接するボルチモア郡の郡庁所在地で、同様に未法人化の町であるタウソンを抜いた。1772年に設立され、1830年に建設されたエリコットシティ駅には、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の博物館分館がある。この駅は当初建設された路線で最初のターミナル駅だった。パタプスコ川西支流上流の絵のようなバレーにある中心街歴史地区は、アンティーク買い物客、歴史見学者に大変人気があり、レストランや折衷的なブティック、コーヒーショップ、ティールームや多くの史跡がある。 エリコットシティはアメリカで最も裕福な町に挙げられている〔Howard County Tourism Home Page 〕。2005年以降、雑誌「マネー」とウェブサイト「CNNMoney.com」で、「アメリカで最も生活するに良い所20傑」に4度挙げられた〔Money Magazine: Best places to live 2005 〕〔Best Places to Live 2006 - Money Magazine 〕〔Best places to live 2008 - Top 100 City details: Ellicott City, MD - from Money Magazine 〕。 パタプスコ・バレーにあるエリコットシティの中心街は「歴史的エリコットシティ」あるいは「オールド・エリコットシティ」と呼ばれることが多く、北のボルチモア郡境、南のハワード郡にある大型の未編入の町コロンビア、西のウェストフレンドシップに広がる周辺郊外の未編入の町とははっきりとした違いがある。 == 歴史 == === 法人化以前 === 1766年、ジェイムズ・フッドが川傍にある自分の土地157エーカー (64 ha) に隣接する土地20エーカー (8.1 ha) を、「1669年メリーランド工場法」を使って工場用地として接収した。その製粉場はパタプスコ川の岸に建設された(後にエリコットのアッパーミルズと呼ばれた)。そこはフレデリック道路(後に旧ナショナル道路と呼ばれ、さらにアメリカ国道40号線/メリーランド州道144号線となった)が川を渡る場所だった。フッドの息子ベンジャミンが、パタプスコ川に頻発していた洪水の1つの後、1768年に、トウモロコシ製粉工場を再建した。ベンジャミンはその後の1774年、工場をジョセフ・エリコットに1,700ポンドで売却した。その後、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道がこの土地を通ることとなり、線路はフッド家の墓所の上に敷かれることになった。 1771年4月24日、ペンシルベニアのフィラデルフィアの北西、バックス郡から来たクエーカー教徒の4人兄弟がエルクリッジ・ランディング(現在のメリーランド州エルクリッジ)から上流数マイルにあった絵のような荒野を選んだ。当時、18世紀の商船がタバコを積んで航行できる川の上限にあった。ここで小麦粉の製粉所を設立するために、ボルチモア郡の土地50エーカー (20 ha) をエマニュエル・ティールから、35エーカー (14 ha) をウィリアム・ウィリアムズから購入した。1775年、バーソロミュー・ボルダーソンとフッドのミルから30・5エーカー (12.3 ha) を買い増した。ジョン、アンドリュー、ジョセフのエリコット3兄弟が「エリコットのミルズ」を設立し、それが東部で最大級の工場となり、工場町となった。ナサニエルが1777年にその持ち分を売却し、ジョセフは翌年、フッドのミル所有権以外の全てを売却した。町は「エリコッツミルズ」という名前だった。アメリカ合衆国郵政公社が1797年10月7日に郵便局を開いた。 エリコット兄弟は製材所、鍛冶屋、厩、搾油工場、穀物醸造所、穀物製粉所を建設した。農夫達にはタバコに変わって小麦を栽培するよう奨励し、痩せた土地を再活性化させるために焼き石こうを肥料として使うことを紹介することで、地域の農業を改革した。エリコット兄弟は1809年1月11日に火事を出すまで、製品を作っていた。アメリカ独立宣言に署名した者として最後まで生存していたチャールズ・キャロル(1737年-1832年)は植民地時代のアメリカでは最大の資産を持つ裕福な土地所有者であり、稀なローマ・カトリック教徒でもあったが、タバコから小麦に転換した初期の有力者だった。1830年までにエリコット家は「エリコット・アンド・カンパニー」あるいは「ジョナサン・エリコット・アンド・サンズ」をもはや支えられなくなっていた。1840年までにエリコット家は製粉所2か所、花崗岩石切り場、製材所、石膏工場の持ち株を売却していた。 1817年、1837年、1868年の3度、町は破壊的な洪水を経験した。 1830年、エリコッツミルズは、国内で最初の商業運転を始めた貨物・旅客鉄道であるボルチモア・アンド・オハイオ鉄道のボルチモア市外では最初のターミナルとなった。この会社は1827年に組織され、翌年には7月4日の独立記念日に建設の始まりを祝う儀式として「最初の石」を置いた。エリコットシティ駅は町の角を横切る堤防、パタプスコ川に沿いタイバー・クリークの水流が交差する所に造られ、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の役員ロバート・オリバーにちなんで名付けられた「オリバー高架橋」が、地元で切り出された灰色花崗岩の大きなブロックでできたナショナル道路の上を越えている。この高架橋は現在も生きた博物館として残っており、アメリカ合衆国内務省国立公園局が管理するアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定された。「アメリカで最古の現存する鉄道駅」という指定を受けている。1830年8月、ニューヨークの工業資本家でボルチモアの鋳造所所有者ピーター・クーパー(1791年-1883年)の蒸気機関車「トム・サム号」と、馬で曳かせた鉄道馬車の有名な競争が、エリコッツミルズからボルチモアまで帰る途中の中継所までで行われた。トム・サム号の駆動ベルトが突然切れて、この勝負は馬の勝となったものの、蒸気機関車が着実に改良されていることを印象付け、来るべき蒸気機関車が駆動する鉄道が町の経済に重要な関わりを持ち、ボルチモア市の経済優越性が国内に広がっていくことを予告していた。 アナランデル郡の西部にあるハワード地区が、1839年に新しく前提地区に指定された後、1840年から1843年に建設されたハワード郡庁舎の場所は、1851年にハワード郡がメリーランド州23郡の1つとして独立した時に継続され拡張された。1861年までにエリコッツミルズは繁栄する農業と工業の町になっていた。 南北戦争が始まった1861年4月から5月、北軍が現在のウェストバージニア州ハーパーズ・フェリーに向かっていた「ワイナンズ・スティーム・ガン」をエリコッツミルズで押収した。この実験中だった大砲は、地元の南部同調者の鉄道建設者かつ工業資本家のロス・ワイナンズが開発していた。1862年秋、ニュージャージー第12志願歩兵連隊がエリコッツミルズを守るよう割り当てられ、パタプスコ女学校の傍の芝生に1,200名のキャンプ・ジョンソンを構築した。1864年7月10日、ジュバル・アーリー将軍が率いた南軍による3回目の北部侵略により、モノカシーの戦いで敗れたルー・ウォーレス少将が指揮する北軍はナショナル・パイクを下って退却し、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道のエリコッツミルズ駅からボルチモアに向かった。モノカシー・ジャンクションでウォーレスの小さな部隊が1日遅らせたことで、ユリシーズ・グラント中将は首都ワシントンD.C.を守る部隊を急行させて間に合わせることができた。エリコッツミルズの家屋や教会は一時的に北軍の負傷兵のための病院として使われた。 1866年、コレラが流行した。 ベンジャミン・デトフォードが所有していたグラナイト・ミルズ綿糸工場が火事で焼けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エリコットシティ (メリーランド州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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